箱庭で遊ぶ日々

よく考えながら生活していくために

2023年 卯年 始まっている

頭の整理がつかない.いつも,いろいろなことが散らかりっぱなしの私の頭の中.

当然,行動もちぐはぐで,無駄が多い.余計なことをがんばったり,肝心なことを先延ばしにしたり.年齢のせいだろうか? 環境のせい? 家族の心配事のせい? 「原因」をみつけようとすれば,何か必ず見つかる.言い訳は必ず見つかる.原因とする物事の範囲を決めればよいだけだ.例えば,父の施設で体調のこと,義父の体調のこと,職場の人との不愉快なできごと,大切な家族にちょっとした変化が起こったこと.自分の体調の変化.それらすべてが言い訳の種になる.ストレス,となる.

ストレスが少しでもかかると,その場から逃げたくなる.最近の逃げ方は,映画や,テレビ,Youtubeをとめどなく視聴してしまう,ということだ.思考停止が始まる.もとの思考に戻るまでに時間がかかる.空想や妄想の時間の方が,まだマシだ.自分自身が積極的な活動なのだから.映像を楽しむことは,ほとんど受け身だ.これをどうしても止められない.依存性のものなのだろう.

本来の自分の仕事といえば,最低限のことをやっとこなしているような状態だ.ほんの少しずつ,毎回,改良を加えている点もあるが,新しい試みを始められていない.このまましぼんで行くのか.本を読む力,理解をする力が弱くなってきた感じがする.それはそうだ,積極的に頭を働かせていないのだから.難しいこと,新しいことに取り組む力が湧いてこない.一瞬,やる気の噴水が上がったと思ったら,次の瞬間,いつものお静かな水面に戻ってしまう.

頭の働きだけではない.体力も衰えてきた.朝起きられない.目覚まし時計をかけても,予定の時間にベットから起き出すことができない. 90分頑張った後はぐったり疲れて思わずやすんでしまう.朝方,胸や腰が痛い時がある.間食をとりたくなってしまう.ルーティンのエクササイズをサボりがちになってしまう.夜中,1回はトイレで目がさめる.髪の毛が減ってきている.鏡を見ても楽しく無くなる.

こんな状況がつづいている.新年の抱負を語るのも意味がないように思えてしまう.無理やり抱負を考えたところで,意味がないような気がする.

うつ病なのだろうか.これだけ前向きな気持ちになれない新年も珍しい.

あえて,目標を考えないでおこう.成り行きに任せて.とりあえずは,明日,早起きできるようにがんばろう.それだけだ.

血圧60mmHg, 酸素飽和度70%

9月30日の8時40分ごろ,出勤途中に施設から電話がかかってきた.いつもと違う時間なので何事かと思いながら着信すると,「父の血圧がとても低くなって危険な状態です,救急搬送等について家族に相談したいので早くきて欲しい」との内容だった.1昨日まで元気だったのだが,なぜ急に.兄弟夫婦にも連絡し,急いでタクシーで施設に向かった.正直,かなりうろたえた.深呼吸をして,仕事の段取りなども考えつつ,パソコンの電源と水をカバンに詰めた.

施設に着いてみると,施設の職員たちはそれほど慌てている様子もなく,医師や救急車も来ていなかった.どんな様子か想像しながら居室にはいってみると,ベットに,いつもよりは少し顔色の悪い父に横たわっていた.側には,看護師がいた.父の体調の異変に迅速に対処し,私に電話を連絡をしてくれた介護士もその場にいてくれた.少し涙目になってはいるが意識のはっきりしている父がいた.暖かい看護を受け,安心している様子だった.私の声掛けにもいつもどおり返答できた.

少ししてから兄弟夫婦が駆けつけた.そこでどんなことを話したのか,今では思い出せない.父の顔色は次第にもとどおりになり,話もできるようになっていた.「危篤状態」からの生還だ.血圧が60mmHg以下,SpO270%以下だと,一般的には意識障害が起こり,危篤状態と判断されて家族に連絡が行くらしい.今後,このようなことが起こった場合の対応策を,父と兄弟夫婦と確認した.病院に搬送しない,ということだ.血圧を上げたり,酸素吸入をしたり等,一切の医療行為をしないということ.ホーム長にも,その旨を伝えた.死をホームのスタッフに任せる,ということ.負担はどうなのだろうか,っと,少し気になった.

父の様子が落ち着いていたので,弟夫婦を残し,私は仕事にもどることにした.老衰死,とはどういうものなのか,ネットで調べてみる.知らないことばかりだ.病院以外での人の死というものを体験したことがない.祖母も,祖父も,母も,病院で死を迎えた.病院の医師と看護師に看取りを任せていたのだ.今回は,介護士を中心に看取りをしてもらうことになる.その負担については,少しは合理的な配慮が存在することを知った.看取り介護加算というものだ.少し,気持ちが楽になった.お金を払えば良いというものではないが,負担をかけた分,何らかの償いをしたい.

今回のことをきっかけに,少しずつお別れに来てもらうようにした.死を待つこと,死を受け入れること,死を共有することを経験していくのだ.あれから2日たったが,父の様子は安定し,これまでと同じように1日を過ごせているようだ.食べられる量も体重も減っているので,それほど長くはないかも知れない.最後の日まで,これまでどおりのように朗らかに過ごせることを願う.そして,私たちは,自分の生活をこなしながら,父とのお別れの準備を進める.

97歳 父のこと

今年で施設での生活も5年目を迎えた.介護士さんをはじめ,世話をしてくれる人々との関わりを楽しみながら,元気に過ごせている.本当にありがたいことだ.

時々,新型コロナウィルスの感染者が出るのだが,今のところ,父は罹患していない.ワクチン3回目も接種したのだが,これまで熱が出たり調子が悪くなったりしたこともない.ワクチンが「効いていない」ということかも知れない.

眼は,緑内障白内障のためか,かなり見えづらくなっているらしい.もう,時計も読もうとしない.かろうじて自分の名前をかける程度だ.ラジコンや知恵の輪で遊ぶこともなくなり,楽しみ限られているとは思う.匂いは以前からかなり衰えている.ここ2,3年,耳も少し悪くなったのだろうか,テレビや音楽を流す時の音量が大きくなって気がする.隣の部屋に聞こえないと良いのだが.

相変わらず,見えないながらも,いくつかのテレビ番組は楽しめているようだ.大河ドラマ「鎌倉殿」は,弟とも話ができることもあって,特に楽しみにしている.弟が手配してくれた「アレクサ」を使って,検索したり,音楽を流したりしている.適切な質問をするのに頭を使うらしく,役になっているようだ.

たまに,施設のアクティビティにも参加しているようだ.先日は,職員の方々によるハワイアンを鑑賞したといっていた.そこで出てきた名前が「灰田勝彦」.戦前から,ハワイアンソングを始め,流行りの歌を歌っていたらしい.調べてみると,1970年代くらいにも活躍していたそうだ.良くそんな古い歌い手の名前を憶えているものだ.父の記憶力には関心させられる.

こうやって父のことをあれこれ書き始めてみると,あれもこれも,記録しておきたいことがいっぱいになる.時間は限られているので,今日はこの辺で.

87歳 義父のこと

今月,義父は87歳になった.免許返上してほしいのだが,まだ,車の運転をしたがる.自分の食事の準備,洗濯,身の回りの片付けはしっかりとできる.記憶もしっかりしており,病院に行く日や仏事等の行事を忘れることがない.庭の管理に余念がなく,広い敷地の草むしりも定期的にやっている.かなり縮小してはいるのだが,親戚付き合いや高校の友人とのやりとりもつつがなく行なっている.

娘を失い,妻を失い,期待の孫が定職に就けないような状況だが,決して悲観的になったり,他罰的になったり,はたまた自分を責めることもなく,しっかりと生きている.生きようとしている.こころが強いのか,それとも,鈍感なのか.自分を大切にするという本能的な能力は持ち合わせているようだが,かといって,自分勝手というわけでもなく,他者を思いやる気持ちも持ち合わせているとように思える.

ただ,他の人の考えを尊重しよう,という姿勢には欠ける.あの家全体が彼の拡張身体のような感になっていて,その空間では彼が支配者なのだ.誰もが従わざるを得ない暗黙のルールがある.ときどき,その雰囲気に抗いたい気持ちになり,心がささくれ立つ.自分の自由を侵害されているような.

いつまでこのままの状態が続くのだろう.人の「終わり方」の難しさを感じる.長生きをすると,当然,面倒をみる子どもらも歳を取り,体力が衰える.いわゆる老老介護と言われる問題に直面することになる.自分のことで精一杯になる.人生の終盤にのんびりとしたいのに,楽しくもない高齢者の世話をしなければならなくなる.高齢になると誰かの手を煩わせて生活をしていく,という社会通念は,いつから始まったのだろうか.

あまり先のことを考えないこと.一週間単位で,「今週もなんとか頑張れた」という気持ちで過ごすことも大切かも知れない.

96歳 父のこと

大正14年生まれの父.施設で機嫌よく過ごしてくれている.施設での生活も,3年と10ヶ月を超えた.施設の方々にも良くしてもらっていて,特に心配なことはない.

ここ数ヶ月,体重が落ちていると担当者が教えてくれた.栄養ドリンクのようなもの2を与えても良いのか,との話とともに.

難しい問題だ.栄養剤の摂取は,延命になるのかどうか.消極的な延命にあたるのか.年をとって,次第に栄養を取れなくなって体重が減っていく.体力が衰えて,筋力も落ち,免疫力が下がり,心臓も元気よく動かなくなり,そして,ある朝が,そっと近づいて来る.

そんな予感の中で,父は毎日を淡々と過ごしているのだろう.他の入居者や介護してくれる方たちとのやりとりを楽しみながら。

 

最近,父が私に話をしてくれた歌を2つ.8時前後に電話をした時に,「ちょっと,調べてくれる」といって,短歌を読み始める

 

3週間くらえ前だったから,

  柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

正岡子規の俳句である.法隆寺でいいんだっけ,というような問いだったと思う.

法隆寺に鐘があったのか,記憶になかったらしい.古文の苦手であった私は,この句も正確には覚えておらず,その背景なども全く知れない.早速,電話をかたてに目の前のパソコンで検索してみると,どうも,法隆寺の鐘の音ではなく,東大寺の鐘の音だったらしい.父にそのことを伝えると,新しい発見として,とても喜んだ.正岡子規が,従軍記者として大陸に渡っていたこと,もともとは武家の出身だったことなどを教えてくれた.正確には,「〜だったと思うけれど,」と私に確認して欲しがったのだ.

自分の遠い昔に覚えたことが正確だったことに,とても安心してくれる.

 

そして昨日は短歌についての問いだった

「『きさらぎ』の正確な意味を教えてくれる?」

「うん,如月のことで,いいの? 2月のことだよ,弥生の前だよ」

「えー,じゃ,寒い時期じゃない.こんな句があるんだけど,そんな寒い時期のことか,,,

 願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ

 

「如月は,旧暦だから,現在の3月中旬らしいよ」

「あ〜,そんなんだ.ありがとう.この句が,以前から好きなんだよ.

確か,西行の本名は,佐藤義清じゃない? 女の人を好きになって,そのことで出家したんだよね〜」と父.

そんなに詳しく,よく憶えているな〜と関心してしまった.

父の記憶力に感心している自分は,ちょっと情けないないなと思う.

父にとっては,当たり前のことなのかも知れない.

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夏休みの検診

久しぶりに歯科検診と眼科検診を受けた。歯科は、市役所から送られきた受診用の案内をきっかけとして、眼科は、ここ数年、左目の見え辛さや、視力の調整困難さが気になっていたので受信してみることにした。学期中に医者にかかるのは面倒なので、この時期になってしまった。

8月21日(土)

歯科は、ここ二十年ほど通っている最寄駅近くのクリニックに決めた。数名の医師をかかえる比較的大きいクリニックなのだが、問題は、自分にしっくりとくる先生に当たるとは限らない点だ。最近、60歳前後の男性医師に当たるのだが、前回治療を受けた際には、顔にタオルをかけられ、どんな器具を使用しえいるのか見えない状態で不安だった。しかも、治療の仕方が荒っぽい。今日も、その歯科医師が現れて、少しがっかりした。大雑把に口の中をひととりチェックしながら、歯科助手にその結果を報告するのだが、助手も記録の仕方がわからないらしく、医師に笑いながらいちいち確認している。診断結果は、歯茎の状態も悪くはなく、特に問題がないとのこと。ただ一点、右下の奥に「根っこの神経の腫れ」(根尖病巣による歯茎の腫れ)があるので、治療した方が良いのでは、という説明があった。半年ほど前に大きな病院の口腔歯科に相談した部分である。「上に被せてある歯を壊して、中を見て治療してみては」のことだ。その場では「結構です」とは言えずに、次回の予約をとってしまった。まあ、予想通りの展開で驚きも落胆もない。歳をとるとこんなものなのだろうか。

今後の治療をどうするか。すぐにネットで調べるころができるので、何をどれだけ心配すべきか、ある程度客観的に評価することができるのが昔と大きな違いだ。専門家しかアクセスできなかった情報を簡単に見られるのだ。とりあえず様子を見ることに決めた。

歯の神経の治療(根管治療) | e-ヘルスネット(厚生労働省)

 

8月25日(水)

駅前の眼科クリニックへ。なぜか眼科、美容科、となっている。近いし、ネット上での評判が良さそうなので決めた。ここでもまた「ネット上の」だ。依存度が高くなっている。最初にあらかじめ眼科助手に視力や眼圧を測定してもらったあと、いよいよ医師の診断室へ。髪が肩ほどまで伸びた女性医師が、薄暗く比較的狭い部屋(まるで私の実験室のような)座っていた。私の顔をみるや否や、明るい声で「目の病気が疑われるのでCTを取ります」と言う。なんだろう、と不安と好奇心とでいっぱいになりながら、片目ずつファインダーのようなものをのぞいて数秒の間正面を見た。黒赤画像上に黄緑色の細い光の線が左右・上下に往復していたように記憶している。測定が終わるや否や、パソコンをカタカタと操作しながらCT画像を提示し、診断を下した。網膜前膜、という病気だそうだ。白髪と同じように老化によって生じるとのことだ。短い時間に、必要な情報を詰め込んだ解説だった。要約すると1)老化とともに水晶体の張りがなくなってきた内側によってくるのだが、その際に、水晶体の外側の幕の部分が網膜付近に残された状態になってしまっている。そのため、見え辛くなったり、眩しくなったりする、2)外科的手術で取り除くことも可能だが、リスクが伴うものなので、視力が0.7以下になるまではこのまま様子をみる 3)軽度の白内障も見られるが、まだ、レベル1なので手術は必要ない。白内障の手術は研修医でもできるくらい簡単な手術で、失敗もない。現段階では点眼する薬もあるが、まだ軽度だし効果もないので使用する必要はない 4)特に日常的な目の使い方(パソコン等)は関係ない。目が疲れるようなら20分ごとに2分ほど目を休める良い 5)半年に1回くらい、目の検診をすると良い。網膜前膜については、悪化すると物が歪んで見えるようになるので、格子状の図柄を見て確認すると良い。急激に歪みが進んだ際には受信すること、6)緑内障の心配はない。

これまで不調だった左目の状態が判って良かった。網膜前膜、という予想していなかった病名を告げられて少し動揺したが、まあ、仕方がない。次第に見栄が悪くなってくるということだ。本気で、目を休める習慣を身につけるようにしたい。

https://https://www.gankaikai.or.jp/health/55/01.html

 

さて、次回の検診は、春休みで宜しいであろうか。2月末に、また。

五輪にちなんだ3つの事件

五輪にちなんだ3つのニュースについて,ネットの反応ばかり追っていたら,なんだか自分の感じ方がおかしいのだろうか不安になってきた.いわゆる「時代遅れ」なのだろうか.のちの検証のために,今,考えていることを記録しておこう.

 

其の1.過去のいじめ記事のために五輪音楽担当を辞退したミュージシャン小山田氏の件

小山田さんというミュージシャンの名前は聞いたことがなかった.ちょうど渋谷系とかいうのが流行っていた頃,日本にいなかったからだろう.数年前に,小沢氏の音楽を聞いたけれど,なんだか素人っぽい歌い方をする人だなと思った記憶がある.小山田さんは彼の片割れだった人だそうだ.ネットは便利なもので,すぐに容姿から生い立ちから,問題になった雑誌の表紙やその内容を見ることができる.結構この話題にはハマってしまって,原本の写しの内容にもたどりついて,インタビュー記事をほとんど読んでしまった.

実際にそんなことできるもんじゃないでしょ,といういうひどい内容のいじめだ.幼稚なのだ.かっこ悪いのだ.見苦しいのだ.自分が虐められる立場の人間がやりそうないじめ方なのだ(と思う).わざわざ,障がいのある同級生を見に図書館に行くなんて,小学生レベルの行動だ.ネット上には,犯罪レベルの行いだといって彼を罵る発言も散見されたが,それは違うのかな,と思う.何を今更,である.ずっと放っておいたのに,なぜ,五輪の音楽に関わったことでこれほど大きく取り上げられるのか.たかが五輪の音楽だ.お金儲けのためにお題目を唱えて大仰なことをやろうとするイベントの音楽の担当者にすぎない.どんな人がやっても,全然構わない.どうでも良いではないか.

私は,基本的に,作品とその人が行ってきたことは分けて考えても良いと思う.良い行い,悪い行いの判断は,曖昧で恣意的なものなのだから.良い作品,悪い作品の価値づけも,作品が世に出されるタイミングや損得勘定によって変わるものなのだから.作品と作者の言動に一貫性を期待する方に無理があると思う.

 

其の2.名古屋の河合市長が金メダルを噛んだ件

正直のところ,恐ろしい.たかがメダルを噛んだくらいのことで,大企業やスポーツ選手がこぞって非難声明をさしたり,政治家や著名人まで出てきて,金メダルの再発行だの辞任の要求だのしたり.なんで?ほんとうに齧って食べてしまったわけでもなく,歯形がつくほど柔な作りでもないだろうに.ツバがつく,といっても,発熱していないわけだしコロナじゃないでしょ.拭けば問題ないことだ.「ちょっとずれてるおじさんが,サービス精神でおちゃらけてみたけれど,周りの人が引いてしまった」というだけの話なのだ.日本人の感性は,どこに向かっているのだろう.ある弁護士が,「困ったことではあるけれど,まあ,あの年齢のおじさんがやりそうなことだし,悪気がないのだから,それほど大騒ぎしなくても,,,」というようなことを言ったら,これまた炎上してしまう.私の感じ方も,「時代遅れ」なのだろう.金メダルは,物だ.努力してかちとった証かもしれないけれど,物に過ぎないのだ.壊れても,汚れても,無くしても,勝ち取ったものは変わらない.メダルをそれほど有難がるなど,偶像崇拝のようで気持ち悪い.メダルを噛まれた選手が,一言,「私は,全然気にしていませよ,お気持ちありがとうございます」といったら済んだはずなのに.

おじさんが頑張ってずれたことをしちゃっただけの話なのだから.誰か,助けてあげれば良いのに,と思う.

 

其の3.張本氏の女子ボクシングについてのコメントが非難をあびた件

「女性でも殴り合いが好きな人がいるんだ.」と,私も思った.殴り合い,という言葉はよくないかもしれないが,みてのとおり,ボクシングは殴り合いだし,サッカーはボールの蹴り合い出し,柔道は投げ合いだ.「嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合って、こんな競技が好きな人がいるんだ」というのは,視聴者のウケを狙った彼なりのサービスだろう.ポリティカルコレクトな発言ばかりでは面白くない.

私は番組自体や張本氏の番組内での役割を知らないので,彼の発言がが問題なのかどうかを判断できない.ただ,「老害だ」「降板すべき」などという激しい個人攻撃に値するようなことではないと思う.スポーツのコメンテーターとしては,ちょっと的外れなことを言ってしまった,という程度のものだと感じる.

女性蔑視だ,と非難している人々が,「高齢者は〜だ」「時代遅れだ」と,年齢差別的な発言を平気でしているのも恐ろしい.ここ数年,世の中全体に,こんな事例が増えてきたように思う.

 

ネット上にコメントを出す人は,結局,敵か,味方かに分かれて議論することを好んでいるように感じられる.起こったことの本質を捉えようとすることより,敵か,味方に分かれて議論を戦わせたり,相手にギャフンと言わせたり,相手が狼狽する様子を遠目から見るのを楽しんでいるのだ.あるいは,普段は誰にも意見を聞いてもらえない人が,ネット上でもっともらしいコメントをし,d(^_^o)をもらって自己評価を高めているのかも知れない.

ここ2,3ヶ月,五輪中止の動向も気になって,ネット上のニュースや,ニュースについてのコメントやツイッターばかり見ていた.中毒性があり,次々といろいろなコメントが読みたくなってしまう.時間の無駄だった気がするが,まあ,ネットにコメントを書き込む人々の多さと,其のエネルギーの大きさを垣間見ることができた.

 

大切なことは,偽善や誤魔化しを見抜く能力,あるいは直感を見につけておくことだと思う.そのためには,自分自身で考えること,調べること,人の意見に耳を傾けつつ,安易に感動したり同調したりしないこと.自戒を込めて.