箱庭で遊ぶ日々

よく考えながら生活していくために

春学期が終わりの準備

ますます自分のことが嫌いになっていく.自分が信用できない,これまでの意思決定に自信が持てない,自分の価値判断が信頼できない,自分の容姿や行動が醜いと感じてしまう.とにかく,これまでの自分について肯定的な気持ちを持てない.変わりたい.自分が納得できる自分に.それも永久にできないような気がする.自分を信頼できない自分がずっと続くような気がする.メタ認知が働く状態,というのはこんなものか.反省していると自分に思い込ませている自分を知っている.こんな状態がどんどん溜まっていっても,何も満足感を得られない.

 三木清を読んでいた頃,自分は人生について,人の生き方の問題点について知ったつもりになっていた.一部共感して,自分は「わかっている」人間のつもりになっていた.しかし,それは一種の思い込みだったのだ.自分に都合の良い部分だけを取りあえげ納得していた部分もある.人よりも一歩進んで人の生き方について理解できているつもりになっていた.今となってはそれも疑問だ.

「自分を自分がどう捉えているのか」ということで人の満足度は変化すると言われるが,同時に,「自分が捉えている自分を世の中がどう評価していて,その世の中の評価を自分がどう捉えるのか」という点もモニタリングすることもある.世の中との関わり,世の中の経済活動の一部を担うことによって自分の生活が成り立っていくのだから,「自分が気に入っている自分を世の中がどう捉えているのか,」ということが重要となり,「世の中で捉えられている自分を,自分でどのように捉えるのか」という視点が不可欠となる.ということで,完全に「主観」の中では生活はなりたたなくなり,生活への満足感も生まれなくなる.世の中での評価,というものがどうしても関わってくるのだ.哲学や宗教でこの点をどのように論じているのか学んだことがないのでわからないが,完全に客観性を排除できないのであれば,結局,いつも世間の評価に反応しながら生きていかなければならない.

いや,自分の幸不幸に自分以外の世界の出来事は関係ない,と言い切ることができれば,本心から考えることができれば,「自分が自分をどうとらえるのか」という視点の移動だけで満ち足りた気持ちにも,この上なく惨めな気持ちにもなりうる.しかし,「自分とは何か」という根本的な問題を考えると,自分は世の中との比較でしか定義されない相対的な存在であることに行き着く.社会的比較理論しかりだ.

とにかく,今,自分で自分のことを満足できずに,信用できない状態にある.信用できない自分が立てた計画を守るに値するのか.「自分を変えたい」,「自分を望ましい方向に変化させたい」,と思っても,信ずるに値しない自分が考えている望ましい方向を信じることができるのか.結局,客観的な物差しを使って自分を変えていくしかない.それには,実際に行動を起こし,そのフィードバックを得なければならない.

 

上記の拙い文章を,chatGPTで要約してもらった.どんな感じか,下記に移す.

著者は自分自身に対してますます否定的な感情を抱き、信用できないと感じています。過去の意思決定に自信が持てず、自分の価値判断や容姿にも不満を抱いています。自分自身を肯定的に捉えることが難しく、変わりたいと願っても、自分に満足できる自信を持つことができないと感じています。また、自分自身に対するメタ認知が働いているようで、反省している自分に対しても思い込みを感じています。

著者は過去に他の人々の生き方について理解しているつもりになっていたが、それも一種の思い込みであったと気付いています。人々の評価や社会的な比較が重要であり、自分の幸福感にも影響を与えると感じています。自分を客観的に捉える視点が必要であると述べており、自分自身を変えるためには実際に行動し、客観的なフィードバックを得ることが必要だと考えています。

 

浅くざっくりと説明してくれるように思う.